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リビングウェル

心をつなぐトス ー 魂の名セッター 猫田勝敏 ー

 1972年9月8日、深夜。中学生の私は目をこすりながらテレビ画面に見入っていた。
 ミュンヘン五輪・男子バレーボール準決勝、日本対ブルガリア戦。優勝本命の日本はよもやの大苦戦。第1・2セットを連取され、続く第3セットも4ー7とリードされてしまう。(当時のルールは1セット15点制で、サーブ権を持った方の攻撃にのみ点が入るシステム)多くのファンが落胆してテレビを消したという。しかし、大逆転劇は起こった!

 浮き足立つチームをベテラン選手の投入によって落ち着かせ、流れを引き寄せた。スパイクが決まるたびにコートを走り回る大男たち。崖っぷちからの3セット奪取!
 3時間15分の激闘だった。勢いに乗る日本は、翌日の決勝戦で東ドイツを破り、悲願の金メダルを獲得した。
 現在の世界のバレーボールの源流となっている「速攻コンビネーションバレー」を確立したのが、この当時の全日本男子バレーである。パワー、体格に劣る日本が編み出した革新的なバレースタイル。その“司令塔”が、猫田勝敏だった。
 オリンピックに4大会連続出場し、金・銀・銅3つのメダルを獲得した“100年に1人”とまで言われた世界の名セッター。64年東京大会で銅、68年メキシコ大会で銀を獲った日本チームは、次回ミュンヘン大会に向けて全てを懸けた。日本一のセッターとなった猫田はこうして、練習、合宿、遠征、試合の繰り返しの日々となる。当時、婚約中の禮子夫人とは、まさにバレーボール一色の人生を歩むこととなる。当然だが、まだプロは無い。一社会人の選手である。  

“身近なところに禮子がいるだけで気が楽で安心しておられますが遠く離れていると、病気をしないだろうかと、寝る前にはいつも考え、心配しております。”

“平凡な生活。今の二人、平凡ではない。私が世界一になれるかどうかわからないけど大きな仕事をしている。この今の生活が終わった時、どこにでもある平凡な生活を築きましょう。それまでいろいろな寂しいこと、悲しいことがあるでしょうが頑張るように。”
―1968年、婚約中の夫人への手紙より

 15年の結婚生活のうち、家族と共に過せたのは正味2年間ほどだったという。猫田は、合宿や遠征先から夫人や3人の子供たちへの愛情深い手紙を送り続けた。家庭では子煩悩な“ごく普通のお父さん”だった。年に一度程度ではあったが、忙しい合間をぬっての家族旅行も楽しんだ。彼に出来る精一杯のことだった。

“禮子も元気で、子供にも心配がない。これが私の宝です。家庭に不安があるとバレーどころではありません。その点感謝しております。安心してバレーをやっています。留守が多くて寂しいと思いますが、苦しい後には楽しみがあるはずです。”
―1978年、遠征先のポーランドからの手紙より
 
 猫田が39年の人生を終えて旅立ったのが1983年。あれから四半世紀。彼が愛したバレーボール。愛した家族。
 オリンピックが来るたびに、ふっとそのことを想います。

 

※参考資料 「父さん、お帰りなさい。〜私の猫田勝敏〜」(日本文化出版)


勝者と敗者のはざまで 女たちの42.195km

1984年、夏。ロサンゼルス。
うだるような暑さの中、オリンピック初の女子マラソンがスタートした。この歴史的なレースを制したのは、地元アメリカのジョーン・ベノイト選手。スタジアムは歓喜に包まれていた。その20分後、異様な光景に観客は息を呑んだ。上体を横にくの字に曲げながら、フラフラと歩くようにゴールを目指すひとりの選手。まるで泥酔者のようなその姿。脱水症状である。明らかに危険に思えた。競技係員が何度も駆け寄り、彼女の状態を確認する。手を触れればその場で失格。だが、薄れ行く意識の中でも彼女はゴールする意思表示をしていた。放送するアナウンサーも涙声。やがて、大声援の中を一歩ずつ踏みしめるようにゴールし、係員の腕の中に崩れ落ちた。
ガブリエラ・アンデルセン(スイス)。39歳。


レース後、自分の姿を見て惨めな思いになり、落ち込んだという。しかし、世界中からの称賛と、勇気をもらったという多くの励ましに気持ちが癒されたそうだ。「自分よりも、最後まできちんと走りきった他の選手を称えるべき。」とは彼女の言葉。どんな状況においてもベストを尽くすことの大切さを学んだレースだったとも言っている。

この大会には、日本から増田明美と佐々木七恵が出場している。増田は、80年代の陸上長距離界で数々の日本記録を打ち立てた名ランナー。しかし、このオリンピックでは思うように走れなかった。19位でゴールした佐々木に対し、増田は16km地点で途中棄権してしまう。救急室のテレビに映ったアンデルセンの姿。肉体的にはまだ走れたはずの自分と重ね合わせた。「なぜ、そこまで走れるの?」同時に心の中でつぶやいていた。

「これじゃ、日本に帰った時に私がいろいろと言われるじゃない!」とも。今だから言える事として、彼女は折に触れて語っている。

彼女への期待が大きかった分、その反動は尋常ではなかった。挫折感と周囲からの激しいバッシング。所属する会社をやめて競技生活から離れる。逃げるようにアメリカに渡り、オレゴン大学に陸上留学。その後、再びマラソンへの情熱が芽ばえ、あのオリンピックから4年後の1988年、大阪のレースに出場する。これは、次回ソウルオリンピックの代表選考会でもあった。しかし、ブランクは大きく、まったく精彩のない走りとなってしまう。追い討ちをかけるような沿道の観衆からの心ないヤジ。「お前の時代はもう終わったんだよ!」。思わずその場に立ちすくんでしまうが、懸命に最後まで走りきった。30位だった。ゴール後、涙がこぼれた。それは、悔しさ以上に、再び走ることが出来た喜びの涙だった。
翌年、東京女子マラソンにおいて、日本人最高の8位入賞を果たしてカムバックするも、92年に、13年間の現役生活にピリオドを打った。その13年間で、彼女は実に12回の日本記録を打ち立てている。


「捲土重来」という言葉があります。
敗れた者がいつか再起を期して反撃に転じる、という意味です。

たった一人の勝者の陰には多くの敗者がいます。今、日本のマラソン界にもまた新しい風が吹き始めています。これまでにも、さまざまな風が幾度となく私たちの心を暖かくしてくれました。“走る”という至極シンプルな競技ゆえに、ランナーたちの孤独感はいかばかりかと想像してしまいます。

この夏、どんな風が私たちの心を走り抜けるのでしょう。


女子プロボウラー 第1号 ー 須田開代子 ー

 今にして思えば、“狂乱のブーム”でした。

 1960年代後半、いわゆる高度成長期の真っ只中にあった日本に、レジャー産業が広く浸透してきた時代です。その象徴ともいうべきものが、ボウリングでした。今では信じられないでしょうが、当時はわずか数ゲームをするために2時間、3時間待ちが当たり前でした。週末ともなれば、待ち時間を避けて早朝のボウリング場へわれ先にと詰めかけたものです。1969年に誕生した女子プロボウラーの活躍がさらに火を付け、怒涛の勢いで国民的スポーツへと変貌したのです。 
 第1回女子プロテストにトップで合格し、女子プロ第1号となったのが須田開代子。
 アマチュア時代から数々の大会で優勝し、満を持してのプロ転向でした。同じく、プロテストでも激しく火花を散らせた同期に、中山律子がいました。二人は数々の名勝負を重ねながらブームの頂点に君臨したのです。当時の二人は、中山が“スター”、須田は“勝負師”というイメージが強く、どんなに須田が勝ち星で上まわっても、常に中山にスポットライトが向けられていました。互いの個性をぶつけ合い、しのぎを削る闘いは幾多の名勝負を生んだのでした。

 しかし、ここで記したいのは、バブルの如くはじけたボウリングブーム後のこと。
 73年までをピークに、あのオイルショックの影響などもあって客足は遠のき、異常なまでの過熱は74年になるとウソのように下火となるのです。ボウリング場は次々と閉鎖され、乱立していたテレビ放送も消え、やがて狂騒の幕は下りました。ボウリング関係者は茫然自失。この苦境に直面し、須田は自らが何か行動を起こさねばと思い悩み、奔走します。主婦を中心とした女性たちに気軽にボウリングを楽しんでもらおうと、プロ・アマを問わないオープンな組織を作ろうと決意し、ボウリング場経営者や支配人への協力、スポンサーの開拓を目指して全国を飛び回ったのです。業界内からの批判や中傷にもくじけず、ついに1976年、『ジャパンレディースボウリングクラブ』(JLBC)を発足させたのです。その後も、ビッグトーナメントの開催やイベントの運営などに力を注ぎ、ボウリングの火を消すまいと精力的に活動を続けたのでした。その間には、結婚・出産を経験して女性としての幸せをも掴みました。そして、離婚も。

 走り続けて気がつけば四十代となっていた須田は、1985年、病魔によって胃の3分の2を失います。しかし、勝負師としての生来の負けん気から、2年後には見事に復帰して、トーナメントでも優勝するのです。彼女の瞳の先には、もういちどボウリングというスポーツが光り輝く日が見えていたのでしょう。

 1995年、再びの病魔によって須田開代子は旅立ちました。
 ボウリングブームの絶頂とどん底を味わい、その情熱の全てを賭けて走り続けた須田開代子。彼女が作ったJLBC代表の座は中山律子が引き継ぎ、その遺志を継承しています。

 12歳の私は、須田が開いたボウリング教室に参加してワンポイントレッスンを受けたことがあります。彼女の瞳の奥には、強く激しい炎と、そして涼やかな風がありました。 


神に選ばれし者 〜ジョージ・ベスト〜

 2005年11月25日。ひとりの伝説のサッカー選手が星になった。翌日行なわれた英国プレミアリーグの全ての試合で黙祷が捧げられ、59歳での早過ぎる別れに涙し、観衆は彼の名を叫び続けた。
 ジョージ・ベスト -

今なお語り継がれる、60〜70年代を席巻した名プレーヤーである。凡人には計り知れないほどの独創性に富んだプレーで、あの“サッカーの王様”ペレをして、『史上最高のプレーヤー』と言わしめた男。

 15歳で名門マンチェスター・ユナイテッドにスカウトされ、17歳で本格的なプロデビューをする。ほどなく主力選手に成長してリーグ優勝、得点王、欧州選手権を制覇し、ついにわずか22歳の若さで史上最年少の欧州年間最優秀選手(バロンドール)に輝いた。まさに新しい時代を予感させるような鮮烈さである。まだまだ“男どものスポーツ”だった当時のサッカー界において、彼は初めて女性たちをスタジアムに駆り立たせ、そして空前の熱狂を巻き起こした。“5人目のビートルズ”と呼ばれ、長髪に甘いマスク、それでいて野性的。他の選手がみな平凡に見えてしまうほどに芸術的で予想不能な異次元のパフォーマンス。ジョージ・ベストは、英国のスポーツ史上初めての“国民的アイドル”となった。


 だが、やがて彼の上空には、スーパースターゆえの強大な雷雲が立ち込めだした。「お国柄」とも言える辛辣なマスメディアやパパラッチの洗礼を受け、次第にフィールド外でのスキャンダラスな報道が増えた。彼の生意気で自信に満ちた言葉、常に美女に囲まれ、奇抜なファッションと気ままなライフスタイル。およそサッカー選手らしくない振る舞いに、“古いタイプの大衆”たちからのバッシングを浴びるようになる。彼もその挑発に乗るかのように、金と酒と女に溺れ、練習をサボり、あげくに試合をすっぽかす。気難しさはエスカレートし、身勝手な奇行を繰り返すようになる。しかし、たび重なるペナルティーや出場停止の処分を受けた後でも、彼の輝きは他の比ではなかった。しかし、この傲慢な若造にこれ以上振り回されることを拒んだチームは、わずか27歳で解雇してしまう。これは、事実上の彼のキャリアの終焉だった。その後、幾たびかの引退と復帰をし、数々のチームを渡り歩くが、もはやそれはサッカーへの情熱のためではなかった。


 わずか10年あまりで神から授かった奇跡にピリオドを打ってしまったジョージ・ベスト。


 晩年の彼は、重度のアルコール依存症に侵される。幾度もの大きな手術を受けるが、最後までその誘惑から逃れられなかった。彼の後半生は、けっして人の手本となるものではなかったが、身震いするほどのプレーの数々と眩いばかりの輝きは永遠に色あせるものではない。2005年12月3日。故郷の北アイルランド・ベルファストでの葬儀には10万人もの市民が参列し、まさに“国民葬”ともいうべきものだった。


 まだ日本にJリーグも無く、日本がワールドカップに出場する日が来るなど夢にも思っていなかった頃、当時のサッカー番組で初めて見たジョージ・ベストの戦慄。その後に現れた幾多の名選手の誰にも感じることのない“魔性の魅力”がそこにあった。
 それは、少年時代の私が、サッカーの媚薬に触れた瞬間だったのです。


26年目の旋風 ー広島カープの初優勝 

1975年10月15日。東京・水道橋の後楽園球場。
ジャイアンツの本拠地であるこのグラウンドで、プロ野球セントラルリーグの優勝が決定した。頂点に立ったのは、球団創立26年目にして初の優勝となる広島カープ。


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追憶のチャンピオン -大場政夫-

1973年1月2日。
東京・両国の日大講堂は、一万二千人もの観衆に埋め尽くされていた。


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