1972年9月8日、深夜。中学生の私は目をこすりながらテレビ画面に見入っていた。 |
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浮き足立つチームをベテラン選手の投入によって落ち着かせ、流れを引き寄せた。スパイクが決まるたびにコートを走り回る大男たち。崖っぷちからの3セット奪取! |
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“身近なところに禮子がいるだけで気が楽で安心しておられますが遠く離れていると、病気をしないだろうかと、寝る前にはいつも考え、心配しております。” “平凡な生活。今の二人、平凡ではない。私が世界一になれるかどうかわからないけど大きな仕事をしている。この今の生活が終わった時、どこにでもある平凡な生活を築きましょう。それまでいろいろな寂しいこと、悲しいことがあるでしょうが頑張るように。” |
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15年の結婚生活のうち、家族と共に過せたのは正味2年間ほどだったという。猫田は、合宿や遠征先から夫人や3人の子供たちへの愛情深い手紙を送り続けた。家庭では子煩悩な“ごく普通のお父さん”だった。年に一度程度ではあったが、忙しい合間をぬっての家族旅行も楽しんだ。彼に出来る精一杯のことだった。 |
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“禮子も元気で、子供にも心配がない。これが私の宝です。家庭に不安があるとバレーどころではありません。その点感謝しております。安心してバレーをやっています。留守が多くて寂しいと思いますが、苦しい後には楽しみがあるはずです。”
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※参考資料 「父さん、お帰りなさい。〜私の猫田勝敏〜」(日本文化出版) |
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1984年、夏。ロサンゼルス。 レース後、自分の姿を見て惨めな思いになり、落ち込んだという。しかし、世界中からの称賛と、勇気をもらったという多くの励ましに気持ちが癒されたそうだ。「自分よりも、最後まできちんと走りきった他の選手を称えるべき。」とは彼女の言葉。どんな状況においてもベストを尽くすことの大切さを学んだレースだったとも言っている。 この大会には、日本から増田明美と佐々木七恵が出場している。増田は、80年代の陸上長距離界で数々の日本記録を打ち立てた名ランナー。しかし、このオリンピックでは思うように走れなかった。19位でゴールした佐々木に対し、増田は16km地点で途中棄権してしまう。救急室のテレビに映ったアンデルセンの姿。肉体的にはまだ走れたはずの自分と重ね合わせた。「なぜ、そこまで走れるの?」同時に心の中でつぶやいていた。 「これじゃ、日本に帰った時に私がいろいろと言われるじゃない!」とも。今だから言える事として、彼女は折に触れて語っている。 彼女への期待が大きかった分、その反動は尋常ではなかった。挫折感と周囲からの激しいバッシング。所属する会社をやめて競技生活から離れる。逃げるようにアメリカに渡り、オレゴン大学に陸上留学。その後、再びマラソンへの情熱が芽ばえ、あのオリンピックから4年後の1988年、大阪のレースに出場する。これは、次回ソウルオリンピックの代表選考会でもあった。しかし、ブランクは大きく、まったく精彩のない走りとなってしまう。追い討ちをかけるような沿道の観衆からの心ないヤジ。「お前の時代はもう終わったんだよ!」。思わずその場に立ちすくんでしまうが、懸命に最後まで走りきった。30位だった。ゴール後、涙がこぼれた。それは、悔しさ以上に、再び走ることが出来た喜びの涙だった。 翌年、東京女子マラソンにおいて、日本人最高の8位入賞を果たしてカムバックするも、92年に、13年間の現役生活にピリオドを打った。その13年間で、彼女は実に12回の日本記録を打ち立てている。
この夏、どんな風が私たちの心を走り抜けるのでしょう。 |
今にして思えば、“狂乱のブーム”でした。 |
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しかし、ここで記したいのは、バブルの如くはじけたボウリングブーム後のこと。 |
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走り続けて気がつけば四十代となっていた須田は、1985年、病魔によって胃の3分の2を失います。しかし、勝負師としての生来の負けん気から、2年後には見事に復帰して、トーナメントでも優勝するのです。彼女の瞳の先には、もういちどボウリングというスポーツが光り輝く日が見えていたのでしょう。 1995年、再びの病魔によって須田開代子は旅立ちました。 |
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12歳の私は、須田が開いたボウリング教室に参加してワンポイントレッスンを受けたことがあります。彼女の瞳の奥には、強く激しい炎と、そして涼やかな風がありました。 |
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2005年11月25日。ひとりの伝説のサッカー選手が星になった。翌日行なわれた英国プレミアリーグの全ての試合で黙祷が捧げられ、59歳での早過ぎる別れに涙し、観衆は彼の名を叫び続けた。 今なお語り継がれる、60〜70年代を席巻した名プレーヤーである。凡人には計り知れないほどの独創性に富んだプレーで、あの“サッカーの王様”ペレをして、『史上最高のプレーヤー』と言わしめた男。 だが、やがて彼の上空には、スーパースターゆえの強大な雷雲が立ち込めだした。「お国柄」とも言える辛辣なマスメディアやパパラッチの洗礼を受け、次第にフィールド外でのスキャンダラスな報道が増えた。彼の生意気で自信に満ちた言葉、常に美女に囲まれ、奇抜なファッションと気ままなライフスタイル。およそサッカー選手らしくない振る舞いに、“古いタイプの大衆”たちからのバッシングを浴びるようになる。彼もその挑発に乗るかのように、金と酒と女に溺れ、練習をサボり、あげくに試合をすっぽかす。気難しさはエスカレートし、身勝手な奇行を繰り返すようになる。しかし、たび重なるペナルティーや出場停止の処分を受けた後でも、彼の輝きは他の比ではなかった。しかし、この傲慢な若造にこれ以上振り回されることを拒んだチームは、わずか27歳で解雇してしまう。これは、事実上の彼のキャリアの終焉だった。その後、幾たびかの引退と復帰をし、数々のチームを渡り歩くが、もはやそれはサッカーへの情熱のためではなかった。 |
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晩年の彼は、重度のアルコール依存症に侵される。幾度もの大きな手術を受けるが、最後までその誘惑から逃れられなかった。彼の後半生は、けっして人の手本となるものではなかったが、身震いするほどのプレーの数々と眩いばかりの輝きは永遠に色あせるものではない。2005年12月3日。故郷の北アイルランド・ベルファストでの葬儀には10万人もの市民が参列し、まさに“国民葬”ともいうべきものだった。 |
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1975年10月15日。東京・水道橋の後楽園球場。