
「取材、撮影:2011年4月」
その人は、グラウンドに佇んでいる。ただじっと腕を組んで、選手たちの動きを見つめている。正直にいうと、撮影クルーは派手なアクションをずっと求めていた。たとえば、往年の読売ジャイアンツの長嶋監督のように、大きなアクションで選手を煽るような絵を。選手を叱咤激励する指揮官らしいフォトジェニックなカットを狙っていたのだった。けれど。コンサドーレ札幌の指揮官である石崎信弘は、ひっそりとグラウンドに立っている。パスの練習を繰り返す選手たちの躍動の中、気を許すとこちらはすぐに指揮官の姿を見失ってしまう。自らの存在感を消すことが監督の仕事ですよ。そう無言で語っているように思えた。その後姿には、謙虚という文字が浮かび上がっている気がした。
震災後の影響もあるのだろうか、練習を見守る地元の観客席のファンもどこかおとなしい。時刻はもう夕暮れが近く、北海道の陽射しはだいぶ光度を弱めていた。その時、聞き覚えのある声が練習グラウンドに響いて、数人のファンがネットの近くに駆け寄った。中山雅史だった。43歳を過ぎてなお現役を続けるスタープレイヤー。彼もまたその存在をひけらかすことなく、黙々とボールを蹴り上げていた。
…僕らの時はね、40歳過ぎて現役を続けるなんて考えられなかった。だから凄いですよ、ゴンちゃんは…。石崎信弘がそういっていたことを思い出す。彼は少し間を置いてつぶやいた。…僕もね、できるだけ現役の選手としてサッカーを続けたかった。粘ったけれどね…。
石崎信弘は30代の中頃に引退した。まだJリーグが今のように認知されていなかった頃だ。東芝のチームに在籍していた彼は、サッカーを辞めて一度、東芝 浜松町本社ビルに会社員として勤務した。ポジションはディフェンダーからデスクに変わった。パスや連携プレイは、内線電話のやりとりへ。ゴールを決めることは、利益率を上げることへと変化していった。
…引退して会社員になったその時がいちばんつらかった。会社員の人には申し訳ないけれど…。そう石崎は語った。サッカーをはじめ、沢山のプレイヤーたちが存在する。彼らはそれぞれのグラウンドやフィールドで夢を追い、レベルを上げようと日々、埃まみれになっているうちに、或る時、不意に気づく。全盛期を過ぎた自分に。自身の身体がイメージに追いついていない現実に直面した時、プレイヤーはどう感じるのだろう。いままで出来たパスが出来ない。身に付けた筈のキックが出来ない。某然と立ち尽くす自分の脇を、若い選手たちが俊敏な野生動物のように横切っていく。そして悟る。誰も永遠に現役ではいられないことを。それはスポーツ選手だろうと会社員であろうと同じであるのだけど。自らの肉体の衰えや反射神経の鈍化が選手生命に繋がる人々は、やはり過酷で残酷で非情でそして孤独な世界に生きている。
グラウンドを照らす陽射しはさらにその光を弱めていた。北海道の夕暮れの中、中山雅史のシルエットが長く伸びている。あのスーパースターは若手に混ざり、風格を滲ませながらも、連携プレイを繰り返している。40歳を過ぎたスターを石崎はじっと見つめている。
…自分をきちんと管理できる意思の強い人なんだろう…。石崎は中山やカズといった高年齢選手をそう評した。
しかし、意思の強さの顕れは石崎の寡黙な横顔にも見て取れる。彼は東芝を辞めて、サッカーの世界に戻る時、周囲の猛反対にあったという。「もう少しで課長になれるというのに。なんでいまさらそんな世界へ?」そんな声に包囲されたらしい。東芝の課長。日本を代表する企業。ステイタスとしては悪くない。けれど彼は躊躇することなくグラウンドへ戻る道を選んだ。彼のバトルフィールドは会議室でも、プレゼンテーションルームでもなかった。現役の選手から指揮官へと立ち位置は変わったが、グラウンドにいるという意味では彼はいまも現役だ。人はどんな分野で闘っているにしても、いつまで現役でいられるのだろう。定年退職、現役引退、幕を降ろす時は必ず訪れる。夕陽を誰もとめられないように。
けれど本当はフィナーレというものは、死を迎える時まで来ないのではないか。寡黙な監督と談笑する中山を見ながらそう思った。石崎信弘。彼は、マラドーナ元監督のようには踊らない。派手なアクションも、サービストークもしない。ただじっとグラウンドに佇んで、選手たちを見守っている。グラウンドはもう薄暗い。陽が落ちていく中、けれど彼はきっと確信しているはずだ。いつまで現役の人間でいられるかは、自分で決められるものだよと。
■初めてサッカーが自分に向いている競技だと自覚した時はいつですか。
それは中学生の時ですね。サッカーというのは、足は速ければ速い程いいのですが、背が高くなくても出来るスポーツ。運動神経がそんなに高くなくてもできる。背が低くてもできる。僕自身、そんなに身体能力が高い方ではなかったけれど。相手の動きを相手よりも速く予測するとか、ディフェンスをやっていたので、ポジションをとるとか、相手とのかけひきというのがサッカーにはかなりあります。そういったサッカーの面白さを中学校、高校で覚えていきました。
■サッカーにおけるいちばんの才能とはなんでしょう。
いちばんは相手とのかけひきですね。フェイントとか。それは相手の逆をとる感じで動いていく。僕は身長もそんなに高くないのですが、それでもディフェンスをやる以上、ヘディングで勝たなければいけない時もある。それには、相手よりも速く、落下地点を予測して動かないといけない。相手よりも速くジャンプすれば、自分の方が速く飛べるし。相手の身長がどんなに高くても。そういうかけひきを考え抜いていく。そこが凄く自分に合っていた気がしました。身体能力がなかった分、サッカーの面白さがわかった気もしますね。
■サッカーは局面がくるくる変わります。ゲーム中、指揮官はどんな指示を出しているのですか。
グラウンドに入ってしまうと、ほとんど監督は何もできない。試合中にはほとんど声が届かない。あれだけの観客がいる中で、指示を出すというのは難しい。だから選手は、日常の練習の中で判断力を養っていかないと。自分の予測以上のことを 相手がしかけてくることもあるし。瞬時に判断できるようにするのが、トレーニングの役割だと思う。
■サッカーを辞めたくなった時はありますか。
僕の選手時代は、勤めていた会社が東芝で、日本リーグの一部にはいましたが、Jリーグには参加しなかった。その頃僕は一回、サッカーを辞めたことがあるんです。東芝の時に、一年間、会社員をやったわけです。その時期は辛かったですね。幸運にもすぐに山形のNECから監督に指名された。迷いはなかったですね。周りの人には、このまま東芝にいた方がいいって、なんでまた辞めて不安定なプロの世界に行くのかといわれたけれど。僕はもうサッカーがやりたくてやりたくて。で辞めたわけです。
■サッカーの世界も昔に比べて高年齢の選手が増えてきています。
もう凄いなとしか言い様がないですよね。世界でもそんなにいない。40歳超えたサッカーの現役の選手は。僕らの時代は、30歳過ぎれば会社の仕事に専念することが多かった。単純に比較できないですが、いまのゴンちゃん(中山雅史)は43歳位で、その頃の僕はもう監督していたから。カズ(三浦知良、横浜FC)もゴンちゃんも、トレーニング全部参加してやっているわけだから素晴らしいと思う。それはやはり自己管理がしっかりできていないとね。40歳過ぎてやれるのは、自己管理がしっかりしている。意思がとても強い人なんでしょう。
■監督として選手の体調管理には気を配っていますか。
やっぱり食生活がいちばんですよね。サッカーの場合動きますから。脂肪がない方がいい。脂肪をつけない食生活を実践しながら、筋肉はつけていかないといけない。コンサドーレ札幌には契約した栄養士さんがいるから、合宿の時に、栄養士さんが来て、食事の摂り方とか、まずは栄養講座を開いて、何が必要かとか講義してもらい、実際に食事を摂っている時にも指導してもらっています。チームとして食生活の管理には積極的に取り組んでいます。
■監督の仕事のひとつに才能の発掘、優れた資質を伸ばしていくことがあると思います。
僕の場合、エリートが集まっているチームは監督していないんです。ただ伸びていった選手はいますね。佐藤由紀彦(さとう ゆきひこ、V・ファーレン長崎)とか。彼も35歳でもまだやっているけど。彼は山形で試合に出ることによって、伸びていったと思う。それでマリノスの時だったか、一度代表にも入った。(才能とは)まずはやはりサッカーがどれだけ好きかだと思う。いま日本代表の李 忠成(り ただなり、サンフレッチェ広島)選手も、柏レイソルにいた時、そんなに目立つ子ではなかった。素直でもなかった。でも、負けずぎらいなんですよ。試合に出たかったわけです。それである時に、たまたま出場させた試合で得点した。その時の得点というのが、ものすごく泥くさいゴールだったんです。キーパーがボールを獲ろうとした瞬間に頭で突っ込んで得点した。それが、彼のJリーグでの初ゴールだった。そこから自信が出てきたのかよくなっていった。あと、ジーコ監督が日本代表を指揮していた時、2006年のワールドカップに出場した加地 亮(かじ あきら、ガンバ大阪)もよく憶えている。彼がセレッソ大阪にいた時に、僕は大分に彼を連れていった。それで試合をどんどん経験させた。彼は、サッカー一筋で、真面目過ぎて他の奴から、白い目で見られるようなタイプだった。やっぱりうまく自分を表現してアピールできない人間が僕のところへ来て、試合に出場させることによって、いい方向へ向かうとうれしいですよね。
■東北で大震災後。心中の変化はありましたか。また選手に何か伝えたいことは。
北海道は震災の影響があまりないけれど、やはり練習をできる幸福は感じて欲しいです、選手たちには。仙台の場合は練習もできない状態で、鹿島アントラーズも、チームで動けず選手それぞれが練習していると聞いています。そういう状況でサッカーができる喜び、それから何かできないのかという気持ちが大事です。チームとしては義援金を集めたり、コンサドーレ札幌のU-18のチームとチャリティマッチをしたり。できることを、やりたいですね。そしてひとりでもいい選手を育てていきたい。チームとしては、厳しいですけれどJ1を目指して頑張っていきたいですね。
文/佐藤司郎 SHIRO SATO
