

プロダイバーときいてイメージするものは何か。きっと多くの人があの有名な映画『グラン・ブルー』を想起するのではないだろうか。人類初の潜水100Mを記録した伝説のダイバー、ジャック・マイヨール。その彼の存在を『グラン・ブルー』で知った人は、沢山いるはずだ。それまで文字通り水面下に沈んでいたダイバーの世界を一気に浮上させた功績があの映画にはあった。篠宮龍三もやはり『グラン・ブルー』の映像世界に、ジャック・マイヨールに憧れや畏敬の念をもったという。
けれど。本物のプロフリーダイバーである篠宮を形容するのに、ジャック・マイヨールの名前を出すのはあまり気が進まない。どこか失礼な気がする。なぜなら篠宮にとって、ジャック・マイヨールは、もはや遠くの世界の伝説の人ではないからだ。彼はすでにマイヨールの潜水記録を破っている。現在、世界ランキング4位。アジア人で初めて潜水100Mを記録した男、それが篠宮だ。かつて憧れていた会ったことのない師に追い着き、抜き去った時、太陽の光の届かない静寂な海底で彼は何を思っただろう。何か独り言をつぶやいただろうか。
…ヘイジャック!会いたかったぜ、やっと追いついたよ。それにしてもここは暗いな。それじゃ悪いけれどおれは先にいくよ。いや奥にいくよ。きみのことを忘れない。おれがどんなに先に、いや奥に行ってもね…。そんな風には彼は思わなかっただろう。
「潜ったら何位に入れるとか、世界記録を更新できるとか。打算的なことを考えていると、脳は余計な酸素を消費して、失神してしまう。ブラックアウトしてしまうんです」だから深海にいる時は無心にならないといけない。篠宮はそう云った。無になるためにヨガや座禅をトレーニングに取り入れているとも。ジャック・マイヨールのことも、世界ランキングのことも、恋人のことも、すべての想念を消して深海を漂う。常に死が身近に横たわっている状況は何に似ているだろうか。F1ドライバーたちの姿が頭を過る。だがそれは陸上の話だ。
「深海にいると。地球の中心へと向かっているのに、まるで地球の外側へ向かっていくように感じる。宇宙に近づいていく感覚がある」篠宮はそんな意味のことを云った。
宇宙ときいてひとりの男を思い出した。チャック・エルエッド・イェーガーという男をご存知だろうか。アメリカ空軍の元テストパイロット。第二次世界大戦後、NASAの前身であるNACAの高速飛行計画に参加したイェーガーは、1947年10月14日、XS-1という機体に搭乗し、高度1万メートル上空で、マッハ1.06を記録。人類初の有人超音速飛行を達成した。つまり音の壁を破った。彼もまたジャック・マイヨール同様に伝説の男として映画に登場した。NASAの宇宙有人飛行を描いた1983年の『ライトスタッフ』。イェーガーを演じたのは、名優サム・シェパードだった。イェーガーは、1947年にマッハ1.36、48年にマッハ1.45を記録、最速の男で在り続けた。1953年にはマッハ2.44を記録したが、直後、イェーガーの機は失速、きりもみ状態で降下し始める。高度8000M付近で機体を立て直し生還するが、映画では機は上昇を続けて、成層圏と宇宙空間の狭間で墜落、イェーガー=サム・シェパードはパラシュートで脱出し、砂漠で炎上する機を背景に黒煙で汚れた顔のまま悠然とスクリーンの中を歩き去る。
篠宮龍三の精悍な表情と、知性的な雰囲気に触れた時、チャック・イェーガーを思い出したのはなぜだろう。空を往く世界最速の男と、海へ深く潜ろうとする男の共通項はどこにあるのだろう。ひとつは孤独だと思う。成層圏にも深海100Mにもオーディエンスはいない。記録達成の瞬間にも歓声は聴こえない。そして、ガッツポーズもできない。感情が高ぶると、篠宮はきっとブラックアウトに襲われる。テストパイロットもまた冷静に操縦桿を握り続けていないと失速してしまう。なぜ篠宮の存在を思う時、ジャック・マイヨールではなく、チャック・イェーガーだったのか。
その理由にようやく気づいた。マイヨールは2001年、イタリア エルバ島の自宅で自殺していたからだ。その死について語る資格は誰にもないけれど。若く可能性に満ちた篠宮と、自殺した伝説のダイバーを比較することにはどこか違和感があった。大空に足跡を残した伝説のテストパイロット、 チャック・エルエッド・イェーガーと深海の奥へと静かに降りて行く篠宮龍三。二人の対談を夢想した。それはまさに夢の競演だが、現実感がないわけではない。
2011年現在、1923年生まれのチャック・イェーガーはまだ生きている。そして当然ながら篠宮龍三も生きていて、ヒトの思考を沈めながら深海へと潜り、そして帰ってくる。深海から陸上への旅。それは生物の進化の過程を疑似体験していることかも知れない。波光煌めく海面から彼が見る風景は、きっと眩しいだろう。かつて陸に上がった魚が、初めて太陽を目撃した時のように、世界は驚きに満ちているにちがいない。美しいにちがいない。
■初めて海に潜った日のことを憶えていますか。
初めてシュノーケリング3点セット(マスク、シュノーケル、足ヒレ)をつけて海の中を見たのは、小学3年の時ですね。場所は千葉の勝浦でした。シュノーケルで楽に息ができて、足ヒレで自由に泳げる。海の世界が一気に広がったように感じましたね。水中には、今まで肉眼で見たことのない生き物が沢山いて、陸上とはまったく違う世界がありました。
■もっと深く潜りたいと思ったきっかけはなんでしたか。
フリーダイビングを知ったのは、映画『グラン・ブルー』でした。しばらく海から遠ざかっていましたが、大学に入ってスキューバダイビングをはじめて。ある日『グラン・ブルー』を観て、子供の頃に素潜りをした時の、忘れていた感覚が甦ってきて。実際、身ひとつで海に挑むフリーダイビングを始めてみると、自分にとてもフィットしていた。人生を賭けて追求したいテーマに出会えた瞬間でしたね。
■体験したことのない、深い海への挑戦に恐怖はありませんでしたか。
水中で崖のようになっている地形をドロップオフと呼びます。水深の浅い側からゆっくり泳いでいって、ドロップオフへ下りた時に、今までにない感覚を味わったのですね。陸上と違い、海中では浮かんだまま移動できるので、空を飛んでいるような感覚があって。その浮遊感が気持ちよくて。怖さもありましたが、もっと深いところに行ったら何があるのかという好奇心の方が強かったですね。でも、本能的に、直感的に、生命の危機を感じる瞬間もあって。目標の1m手前で引き返したこともあります。未練を断ち切って帰ってこなければ、痛い目にあう結果になるので。
■ダイバーという存在は、一般的なスポーツのプレーヤーよりも、宇宙飛行士やF1ドライバーに近いように感じます。誰も見たことのない景色を追い求める。そんなイメージがあります。
地上を離れて、海の中へ、地球の中心へ潜っていく。海の懐の中にどんどん入っていく。そこには、光もなくて、音もなくて、重力もなくて。宇宙に近づいていくような感覚があります。地球の中心に向かっているのに、まるで地球の外側に向かっているような。海中には、地上で流れている1分1秒という時間とは全く違う時間が流れていて。地上での1mは大した距離ではないですが、水中では1m深く潜るだけでかなり圧力が加わってきます。圧倒的な水の質感を感じて、時間が濃くなっていく。5秒くらいに感じていたのに、実際は10秒、20秒も経っているような。それだけ心地よい空間でもあります。
■「ずっとこの空間にいたいな」という思いもあるのでしょうか。
コンディションがよければ、できるだけ留まっていたいと思います。水深100mを越えた世界では、酸素が必要だとは感じないのですね。その数分は、空気を吸わなくても生きているわけで。生物として必要な酸素が、一時的にいらない精神状態になる。人間の能力は有限ですが、その壁が取り払われたように感じて。「人間の能力は無限なんじゃないか」と実感する瞬間です。
■ダイバー独自のトレーニング法はありますか。
フィジカル面では水泳のトレーニングがメインですが、メンタル面が非常に重要になります。フリーダイビングは息を止めて、深く潜って、帰ってくるというリスクのあるスポーツ。そのストレスに打ち勝つために、ヨガや座禅を取り入れています。ヨガの呼吸法や瞑想で、日頃からリラックスした状態を保つことが、高いパフォーマンスにつながるのです。相手に勝つための競技とは違い、フリーダイビングは個人競技です。多くの酸素を使う脳を休ませながら、限られた酸素と血液を体内にうまく回すことがポイントになります。「潜ったら何位に入れる」とか、打算的なことを考えると、脳が余計な酸素を消費して失神してしまう。ブラックアウトと呼ぶのですが。深海でもリラックスして、無心になることが大切です。
■無心の状態に意識してもっていくのは、なかなか難しそうですよね。
トレーニングを積み重ねていって、自然にスイッチが入っていくようにするしかないですね。やろうと思ってできるものでもないですし。意識しないで、意識するというか。意識しつつ、意識しないというか。なんだか禅問答のようですが(笑)
■日常の食生活で気を遣っていることはありますか。
フリーダイビングは息を止めて行うスポーツなので、消化で酸素やエネルギーを奪われないことがポイントです。消化しやすく、エネルギーになりやすい炭水化物と糖類が重要になりますね。試合の前には、なにも食べないことも多いです。
■世界各地で大会が開かれるわけですが、食事が合わなくて体調を崩したことはありますか。
エジプトに行った時は、衛生状態が悪くて困りました。食べ物はおいしいのですが、水自体が悪いので。その水で氷もつくりますし、野菜や食器も洗うという状況で。海外に行く時は、なるべく生水を飲まないようにして、日本から持っていった食材を料理したりもします。
■海外遠征へ行く時に、ブイ・クレスなどのサプリメントは持って行きますか。
普段からトレーニングの後などにブイ・クレスを飲んでいます。サッパリしていて、飲みやすいですよね。海外遠征の時には、ブイ・クレス トラベルも持って行きます。フリーダイバーは体内の活性酸素を除去するために、ビタミンC、ビタミンE、ビタミンA、コエンザイムQ10などの抗酸化物質を摂りますが、必要な栄養素が豊富に含まれているブイ・クレスはダイバー向きだなと感じています。
■東日本大震災が起きましたが、ひとりのダイバーとして心境の変化はありましたか。
現在使っているウェットスーツは、宮城県・石巻市の工場で作られたものです。被災地の方々は、今も大変な日々を送られていると思います。皆さんを勇気づけたり、元気づけるためにも、日本代表として世界記録をめざしたい。世界一になることで、日本に明るいニュースを持ち帰りたいですね。
編集協力:株式会社ライツ/HarvestPlanning
文/佐藤司郎 SHIRO SATO
